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フリースタイルの作風で仏像を彫り続けたトラベラー僧侶。庶民に愛された「えんくさん」の仏様の微笑みが世界を救う。

円空

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12万体もの仏像を彫った、旅する修行僧

▲円空上人画像 高山市丹生川町/千光寺蔵
円空(1632~1695年)は美濃国生まれの修験僧・仏師・歌人。
寺院には所属せず、江戸時代に庶民救済を目的に諸国を旅し、人々と触れ合いながら生涯に12万体の木仏を彫ったといわれています。
ノミで削った跡がそのまま残るような素朴な作風を持った木彫りの「円空仏」は、野性味に溢れながらも微笑をたたえているのが特徴で、昔から多くの民衆に親しまれてきました。
長い時を超え人々に微笑みかける円空仏は、今もなお観る人を魅了してやみません。

円空と岐阜のゆかり

北海道から近畿にかけ各地に足跡を残している円空ですが、旅の始まりであり終わりの地でもある岐阜には深い関わりがあったとされています。
岐阜県内には円空ゆかりの史跡が多く存在し、円空が数年間滞在したとされている飛騨千光寺には、64体の円空仏や書画、歌集などが納められています。

▲円空が当時の住職と意気投合し、数年滞在したとされる飛騨千光寺

▲病気の人に貸し出されたなどの逸話が残る三十三観音。現存しているのは31体。
後期の円空仏の特長である、木の断面図やノミの跡が残っています。
確認されている円空仏約5,000体のうち、1,300体以上は岐阜県内に残されています。
数の多さはもちろんのこと、ゆかりの深い岐阜には若い頃から晩年までの作品が揃っているため、円空の魅力を余すこと無く味わうことができるのです。

▲飛騨千光寺の境内から見える景色。江戸時代、もしかしたら円空も同じ風景を見ていたかもしれません。
一つの箇所に留まらないとされていた円空は、やがて自ら再興した岐阜県の関市池尻にある弥勒寺(みろくじ)に落ち着くようになり、そこを拠点として仏像製作の旅を続けました。
12万体もの仏像を彫り還暦を迎えた円空は、母の命を奪った長良川を入定の地とし、弥勒寺境内の長良川の畔で即身仏として入定を遂げました。
現在は長良川河畔に入定記念碑が建てられています。

庶民に愛された「えんくさん」

1632年(寛永9年)、美濃国郡上郡(ぐじょうぐん)の美並村で木地師の子として生まれたとされる円空。
仏教を学び始め、32歳の時に初めて天照大神像などを始めとした神仏を彫りました。
その後は美濃国を拠点としながらも全国を旅し、民衆を苦しみから救う為に悩み苦しむ人々には菩薩像を、病に苦しむ人には薬師像を、災害に苦しむ人々には不動明王像を、限りある命を救うために阿弥陀像などを彫ったとされています。
30代の頃から彫り始めたという仏像は、初期は古典的な造りをしており、丁寧に時間がかけられたことがわかるのが特長。
一方で、後期になっていくにつれ、木の断面図やノミの跡が残る、簡素な仏像が増えていきました。
生涯で12万もの仏像を彫ったとされる円空は、旅の過程で仏像を「たくさん彫る」ことに重きを置いていったのです。

そんな円空の長い旅の目的は庶民救済。
「諸国を歩きながら12万体の仏像を刻む」という誓い誓願を立てた円空の足跡は、故郷の岐阜県や近隣の愛知・滋賀・名古屋にとどまらず、北海道、秋田、宮城、栃木、滋賀、三重、奈良などにも広く残されています。
円空は寺も仏像もない小さな村々を訪れ、そこに住む困っている人たちを救おうと、その土地で手に入る木を使って仏像を彫ったとされています。

人々からは親しみを込めて「えんくさん」と呼ばれており、円空が活動拠点にしていた丹生川地区では、いまでもそう呼ばれることも多いのだとか。

円空仏は、柔らかく口角の上がった、独特の微笑みをたたえているのが特長。
円空の性格にまつわる記録はありませんが、作品と同様、柔和で自然体な人柄だったのではないかと感じます。

抽象的に表現された仏像からは、荒削りだからこそ仏像の神髄を感じられる、受け取る人によって柔軟に変化するような自由さと、包容力のような温かさがあります。
生涯旅を続け、多くの人々に救いをもたらした円空。
その魅力を肌で感じに、飛騨に残された円空の足跡を訪ねてみてはいかがでしょうか。

ACCESS INFORMATION

住所 岐阜県高山市丹生川町下保1553

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