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金森長近

2022/12/23 更新

高山の基礎を築いたのはこの男!信長、秀吉、家康の三英傑に仕えて大出世。人脈パワーがすごい文武両道のいぶし銀武将。

信長、秀吉、家康の三英傑に仕えて大出世。

飛騨高山の街が商業的に発展した背景や、豊かで独特な文化の成り立ちを知ろうとすると必ず名前が上がるのが、飛騨国の初代国主「金森長近(かなもりながちか)」です。
彼は今に残る飛騨高山の原型を作った最重要人物であり、飛騨高山の祖とも言える人物です。

金森長近は1524年に美濃国(岐阜県南部)に生まれ。当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった織田信長に仕えると、武勇に優れた人物だけがなることのできる信長直属の赤母衣衆に抜擢されます。
その後も柴田勝家に寄騎として加勢したり、武田氏との全面戦争となった甲州征伐では飛騨口の大将を務めるなど、信長の直参武将として高い地位で活躍していました。
信長の死後は豊臣秀吉に仕えて戦働きをする中で、1585年に秀吉に飛騨国の攻略を命じられました。
金森長近は飛騨国を支配していた三木自綱を討伐し、その褒賞として飛騨国を拝領することにりました。

山奥の飛騨国を商業都市へ大改造。

飛騨の大名となった長近は1605年に現在の城山公園の高山城を建築します。
織田信長や豊臣秀吉、明智光秀らが街を整備することで商業を発展させ、国力を高めてきた姿を目の当たりにしてきた長近は、城の建築と同時に城下町や街道の整備(現代でいう都市計画や道路整備)に取り組みました。
山奥で雪深く、物流に乏しいこの飛騨国をどれだけ豊かな都市にできるか、長近は夢を見たに違いありません。

商業の発展のためには物流を盛んにさせる必要があることを理解していた長近は、東西南北に街道を整備しました。
北は越中(北陸方面)、西は郡上(滋賀・京都方面)南は尾張(岐阜市・名古屋方面)、東は甲州から江戸方面へとあらゆる方向へと道を通し、商人を飛騨に招いて経済を活性化させました。
さらに飛騨国の森林資源や鉱山資源を活用した林業や鉱業にも力を入れ、川を通じて材木を流通させてどんどん国を豊かにしていったのです。
また、千利休や古田織部、豊臣秀吉や徳川家康と茶の湯を通じて交流していたという長近は、茶の湯の文化も飛騨国に根付かせました。

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは徳川家康方へ味方して兵を出しますが、3万石程度の飛騨国でありながら、商業や産業で力をつけた長近はその倍近い6万石もの軍役を負担できるほどの国力になっていたといいます。

人脈パワーがすごい文武両道のいぶし銀武将。

関ヶ原の戦いで徳川方が勝利すると長近はその功績から徳川家康に仕え、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国の三英傑全てに仕えるという稀有なキャリアを持つこととなります。
信長、秀吉、家康のような英雄伝こそないものの、長近は武勇、政治、まちづくり、文化とあらゆる面に秀でたいぶし銀の武将として名を馳せ、飛騨高山の街や文化を大いに成熟させたのでした。

現在の高山市の古い町並みは、長近が作った町割りがそのまま残っています。
長近が夢見た商業都市が時代を超えて発展を遂げ、育まれた文化は独自の風景を作り出して今は観光都市として大きな財産を残してくれています。

高山城跡を整備した城山公園には金森長近の銅像が建てられ、空町と呼ばれる高台から高山市民の営みを見守っています。
金森長近は飛騨高山の人々にとってあらゆる面で父親のような存在として、今日も親しまれているのです。

ACCESS INFORMATION

住所 岐阜県高山市上一之町75

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